きどさき・なぎさ(建築家・京都工芸繊維大学准教授)
1960年生まれ。『鈴木木材工業本社』で96年SD賞・98年インテリアプランニング賞・99年グッドデザイン賞受賞。02年『チュウクウ』で東京建築士会住宅建築賞受賞。建築・インテリア・家具、イベント等の会場構成までを手がける。センシブルな感性と磊落な人間性、この相反する要素がバランスを持って内在する故か、多くの若者の支持を得ている建築家。
なかたに・まさと (建築ジャーナリスト 千葉大学客員教授)
1948年生まれ。「新建築」編集長を経てフリーの建築ジャーナリスト
少し前に4面全部ガラスで囲んだ『チュウクウ(注)』という住宅を設計しました。
これができたとき、ガラスの厚みっていうのをすごく感じちゃったんです。内の空気と外の空気を厳然と分ける厚さ。こちらとあちらという「領域」がカチッとできてくる。
そうです。透明でいろんなものが見えるようでいて、実はそんなに見えていないんじゃないかな。
ガラスで住宅を囲ったら、もっと希薄な存在感になると思ったんですよ。外部と内部に差がほとんどない柔らかいものになると思っていたら、実はすごく違うハードなものになって(笑)発見でした。
ガラス窓には、そこを通ってあっちの景色にたどり着く「空気の層」みたいなものを感じます。1枚のガラスを通して外を見ると、私には空気が「物質」に見えてくるんです。水槽を外から見ると中の水が物質としてわかるみたいに。
ひとりで設計を始めた頃から「周囲と少しだけ異なる空気のカタチ」を建築でつくりたい、とずっと思ってきました。
このカタチをつくると必ず外部環境との境界上に切断面が出てきて、それが通常、建築の躯体もしくはガラスになります。現場で躯体が立ち上がってくるときは外部と一体的な自由な感じがありますが、開口部にガラスが入った瞬間、内と外の連続する景色の間に境界ができる。
こちらとあちらができて、自分はどちらにも自由に行けるんだけど、躯体のときの連続感はなくなって両側に非連続な「浮遊感」ができるように感じます。
空気の切断面としての建物のガラス窓では、外光が家の中を透過したり、景色が反射したり、自分自身が映り込んだりと、さまざまな情報が外からも内からも押し寄せてせめぎあっています。いろんなものが出てくる面なんです。
コントロールするのは開口ですね。そこにガラスが入って窓になることで、もう少し「りりしいもの」になるというか。
ガラスのない開口では景色も空間も連続していて、ある種情念的。そこにガラスというカチリと冷たいものがひとつ入ると、それ以前のストーリー通りにいかなくなるんです。
視線を透過しながら意識は自分に反射したり、意識を外に持っていきつつ入ってくるものとのすれ違いを考えたり、外部からの情報を遮断して自分は内側に来たり、と組み合わせが増えるんですね。
ガラスがあることで、そこに押し寄せるものが視覚化され、ガラスのところで「入れるか入れないか」の選択を毎回迫られる。そんな気がします。
どんどんやってくる情報を受け入れるか、シャットアウトするか、もしくは見るだけにするのか、選択する意志がないとよくわからなくなっちゃうんじゃないでしょうか。
だから、ガラスに囲まれた家に住む人たちはたくましくなっていきますね。
最初はカーテンを引いていてもその後は違和感がなくなり、むしろカーテンがあるとちょっと寂しくなるといいます、情報量が減るから。だから、いつ行っても割と開いた感じになっています。
外部にありのままをさらされるガラスの家は、やっぱり厳しい環境だと思います。でも、そのぶん選択肢が増える気がするんです。だから住む人たちは自分の意識をスイッチして、「見られる」ことはオッケーとして「見ること」を選んだんだ、と思うんですよね。
ちょっと景色を変えたい、というのはありますね。居場所が限定されてくると、そこに飛び込んでくるものも限られてしまうので。
生きることには「選択」の場面がけっこうあるけど、選択肢の数って意識しないとあまり増えないですよね。でも、ガラスの家では、その反射や透過、映り込みによって思考や視線、自分の内部を意識せざるを得ない。「自分は情報をセレクトする立場なんだ」と思い知らされる。そこがとても現代的だなって思います。
そう、目を背けている自分に気づかされちゃうみたいな。
とてもメンタルな話ですが、そのことが「透明で固く、ある厚さを持った」ガラスの物質性によって引き起こされるのが面白いと思うんです。
ガラスって、実はクセのあるやらしい奴なんじゃないかと。そこがすごく好きですね(笑)